高梁市なのになんで松山城?
ここは岡山県高梁市。なかなか読めない難読市町村名かもしれませんね。よく「たかはり」とか「たかなし」とか間違えられますが、「たかはし」が正解です!
そして、さらに市町村名を複雑にしているのが、お城の名前。「備中松山城」です。なんで高梁城じゃないの?なんで松山城?松山城って愛媛じゃないの?なんて声が聞こえてきそうです。
その理由は、現在の高梁市はその昔、江戸時代には松山藩と呼ばれていたからです。備中国の松山藩にあるお城だから備中松山城と呼ばれており、現在までその名が残っています。

備中松山城は山城
さて、そんな高梁にある備中松山城ですが、このお城はなんと現存十二天守の一つであり、国の重要文化財に指定されています。そして、その中では唯一の山城です🏯なんとも貴重なお城なのです。
備中松山城は臥牛山という山にあります。臥牛山は4つの峰で構成されており、南から前山、小松山、天神の丸、大松山となっていて、現在残っている天守は小松山という峰の頂上にあります。


備中松山城と言えば
大手門跡には巨岩が聳え、岩盤と石垣、土塀の見事なコラボレーションを見ることができ、これぞまさに山城!といった風情を最も感じられる場所であると思います。
天守や二重櫓も岩盤を基礎として立っており、山の地形を城造りに見事に生かしています。昔の人の知恵はすごいですね。
この堅固な大手門付近の石垣群に、威風堂々とした佇まいの天守に二重櫓、これこそ、みなさんご存知の備中松山城ではないでしょうか。


臥牛山は一大要塞
でも、備中松山城はこの近世城郭だけじゃないんです。
先ほどお話しした臥牛山の他の峰にも城跡があるのです。中でも大松山にある大松山城跡こそが備中松山城の始まりなのです。
鎌倉時代、時の地頭であった秋庭氏が大松山に砦を築いたことに始まります。そもそもお城は軍事施設ですから敵の侵攻をいち早く発見する必要があります。そのため、中世以前は山の峰など周りのよく見渡せる高所に砦を築くことが多かったそうです。備中松山城もそうして始まりましたが、時の流れとともに、利便性を求めて今の小松山へ移って行きました。そうした流れの中で一時は、臥牛山全域が城化しており、一大要塞となっていたそうです。


もう一つの備中松山城
大松山城跡には、曲輪や堀切といった遺構を見ることができますし、天神の丸には城主が信仰していたと言われる天神社という社の跡があります。また、山の山頂付近にも関わらず、大池という城郭としては国内最大規模の貯水池もあります。この大池は通称「血の池」とも呼ばれ、戦の後刀を洗ったなどという伝説もあったりします。
城跡って城好きとか詳しい人じゃないと分からないだろうし、楽しくなさそう…と思う人もいるかもしれないですが、よく見てみると不自然な谷間や溝、平たい場所など人工的に作り上げられた地形だなという部分が分かったりします。そういうところが城跡だったりします。
この城跡がもう一つの備中松山城です。実は備中松山城は今の天守の奥にもたくさんの城跡が残っているのです。



おわりに
ざっくりと二つの備中松山城について紹介しました。
備中松山城に行くときは、もう一つの備中松山城があることもぜひ覚えておいてくださいね。健脚の方は、中世の城跡へ足を延ばすのもお勧めです。
備中松山城は山城。自然いっぱいの山の中、多種多様な樹木に鳥の声、吹き抜ける風、散策するだけでもとても気持ち良いはずですよ♪

備中松山城についてはこちら
https://www.bitchumatsuyamacastle.jp
https://www.city.takahashi.lg.jp/site/bichu-matsuyama/shiseki.html