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第3回|備中松山城のはじまりをたどる

鎌倉時代、臥牛山の山上に築かれた小さな砦。備中松山城の歴史は、ここから静かに始まりました。

〜秋庭氏から高橋宗康、そして頼久寺へ続く静かな時代の物語〜
備中松山城といえば、戦国時代の攻防や現存天守の美しさで知られますが、その“はじまり”は、実はもっと静かな時代にあります。今回は、戦の世が訪れる前、この山に築かれた小さな砦と、それをめぐる人々の物語をたどってみましょう。

◆ 鎌倉時代、臥牛山に城が築かれた!

臥牛山の高みに築かれた原初の砦。木柵や物見櫓を備えた小さな山城から、備中松山城の歴史は始まったと伝えられています。

仁治元年(1240年)、承久の乱の功績により、備中国有漢郷(うかんごう)の地頭に就任したのが、秋庭三郎重信(あきば・さぶろう・しげのぶ)です。現在も高梁市有漢町として地名が残るこの地域を治めていた重信は、臥牛山の北側、標高約480mの大松山に砦を築いたとされます。これが、備中松山城の原点です。
当時の“城”は、今のように天守や石垣があるわけではなく、木柵や土塁を用いた簡素な防御施設。戦の際に一時的に立てこもる「避難所」のようなものでした。しかし、臥牛山の地形は天然の要塞とも言える構造で、その後の時代にも軍事的価値が高く評価され、少しずつ整備が進められていくことになります。
秋庭氏はこの砦を拠点に、約300年にわたりこの地を治め、備中松山城の最初の歴史を築いた一族として記録されています。

◆ 「松山」の地名はどうして生まれた?

領主の名をそのまま呼ぶことをはばかり、「高橋」から「松山」へ。あくまで伝承ではありますが、地名の変化の裏には、当時の人々の敬意や暮らしの感覚が息づいていたのかもしれません。

南北朝時代、この地を治めた武将として伝わるのが高橋宗康(たかはし・むねやす)です。彼が居城とした時代、「高梁(たかはし)」という地名を地元の人々が口にすることが「お殿様を呼び捨てにするようで恐れ多い」との声があり、代わりに「松山」と呼ぶようになったという説が残されています。
また、宗康の時代に現在の小松山(標高約430m)まで城域が拡張されたという伝承もあり、山城としての備中松山城の形が整い始めたのもこの頃だったのかもしれません。

◆ 頼久の名を今に伝える「頼久寺」

頼久寺は、松山城主・上野頼久の名を今に伝える寺。後に小堀遠州ゆかりの庭園でも知られるようになり、城下町の静かな見どころとなっています。

さらに時代が下り、16世紀初頭には上野頼久(うえの・よりひさ)が松山城主としてこの地を治めていた記録があります。彼の名を今に伝えているのが、現在高梁市にある国指定名勝「頼久寺(らいきゅうじ)」です。
この寺は、もともと足利尊氏が安国寺として建立した禅寺であり、それを頼久が整備し、「頼久寺」と命名したと伝えられています。後に小堀遠州が庭園を手がけたことで、その美しさでも名高くなりました。
備中松山城を訪れる際は、この頼久寺もあわせてめぐってみてはいかがでしょうか。山城の歴史とともに、武将たちの面影に触れることができます。

◆ まとめ:静かなる礎があったからこそ

木柵の小さな砦から、現存天守をいただく山城へ。備中松山城の歴史は、長い時をかけて少しずつ積み重ねられてきました。

戦乱の世を迎える以前、この地には秋庭氏が砦を築き、高橋氏が城域を整え、上野氏が寺を整備した静かな時代がありました。備中松山城が現在の姿へと成長するためには、このような“礎”となる歴史の積み重ねがあったことを、忘れてはならないでしょう。

次回はいよいよ、戦国最大の攻防――
三村元親と「備中兵乱」のドラマに迫ります。どうぞお楽しみに!

▶ ワンポイントメモ

✅ 築城:仁治元年(1240年)秋庭三郎重信
✅ 地名と城域の拡張:南北朝期の高橋宗康
✅ 松山城主・頼久寺整備:上野頼久(16世紀初頭)